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Takashi Ishihara Column 04

[連載 : 第4回] 僕は音楽の雑食派 〜

テキスト:石原 孝

今、時代は第2次お笑いブームだそうだが、その中でホストを装いながら過去の自分の悲惨な体験をオモシロ可笑しく語り、大ブレイクしたのがヒロシ。実は、彼のコントのバックに流れている曲が、僕にとっては昔愛聴していたレコードなのだが、それがどうしても思い出せない。私の周辺のものに尋ねても誰も知らない。英語詞ではないので、アメリカ、イギリスのポップス・ファンは当然知らないだろうし、僕が業界に入る前にシングルで買った記憶があるくらいだから、1970年以前となると若い世代の人は知らないだろう。思い出せそうで思い出せない。まるで魚の小骨が喉に刺さった感じで、日々悶々としていた。

ところがある日突然、僕の愛読新聞である東スポのコラムにこの答を発見することになる。実はこの曲、'69年に制作されたイタリア映画で2枚目俳優 レイモンド・ラブロックが主演した「ガラスの部屋」の主題歌で、歌手はイタリア・ナポリ生まれのペピーノ・ガリアルディ。この曲が彼の日本での最大ヒットで唯一のヒットということだった。当然、我が家のレコード倉庫の中で発見し、その後フルサイズでシングル盤をターン・テーブルに載せて聴いた時の喜びはこの上ないものだった。今まで目の前にかかっていたもやもやの霞が急にスーッと引いて、視界が急に良くなった感じでスッキリ。後日、大型レコード店に行った際に、洋楽コンピレーション「僕たちの洋楽ヒット4集」の1曲として既にCD化されているのを見つけ喜びは半減してしまったが、僕としては1月のプチ幸せな出来事だった。

ここで、ふと思うことがあった。現在の日本の音楽マーケットでは、外国曲は英語詞以外でビッグ・ヒットした曲はほとんど思い当たらない。ところが、僕たちが青春だった60年代のヒットパレードは、イタリア語 (ジリオラ・チンクェッティ、ボビー・ソロなどのカンツォーネ)、フランス語 (シルヴィ・バルタン、アダモ、フランス・ギャル etc)、更にはヴォーカル無しのインストもの(ベンチャーズ、シャドウズからポール・モーリア、ビリー・ヴォーン楽団のオーケストラものまで)、他にも映画主題歌(勿論、アメリカ、ヨーロッパ、あと話題性があればどこの国でも)等など、良い曲であれば何でもアリの時代であった。今の時代のように世界の情報が過剰に入ってくる時代と違って、当時は数少ない情報をこちらから出来るだけのメディアを使ってリサーチしていくという、極めてアナログ的な原始的なやり方が主流。でも、その努力で知りえた音楽情報は実に嬉しいものであり、余計な情報なしで、その曲の良し悪しを判断し、選択し、そして楽しむという実にシンプルな方法をとっただけに、英語詞以外でもインストでも、アーティストの人種、年齢も関係無しに受け入れられたものだった。

僕は、音楽をロジック詰めで語るのは嫌いだ。最近は特に、アメリカもの、イギリスもの、何年代、シンガー・ソングライター、R&Bソウル、ジャズなどに限定して聴くファンが多い。どのジャンルにも首を突っ込んで、アレも好き、コレも好きと言うと、この業界では割と軽薄と評される。例えばロックの中でも、シンガー・ソングライターは、ヴォーカル・シンガーより価値が高く評価される傾向があるし(その証拠に音楽専門誌の特集の取り扱いかたなど)、4ビート・ジャズ・ファン(あえてこう言うのは、フュージョン、クロスオーバー系のファンにはこの傾向が見られないため)は、ロック・ファンを一段見下げた感じ出し、なぜ窓口を狭めて音楽を聴くのか疑問である。何しろ、僕の70年代、ロニー・リストン・スミス、ガトー・バルビエリなどのジャズ・フュージョンを多く抱えるフライング・ダッチマン・レーベルのプロモーションを展開するときは大変だった。アメリカではちゃんとジャズのチャートにランクインしているのに、日本のジャズ誌は全く耳を傾けようともしないで門前払い。仕方がないのでロック誌にいくと、お情けで小さなコラムをチョッピリもらえる…そんな状況が続いたものだった。若い僕のようなA&Rは、確立されたジャンルの音楽以外を担当させられていたのである。

話はちょっと本筋からそれるが、前回にも書いたとおり、KC &サンシャイン・バンドやジョージ・マックレーのTKを日本のヒット・チャートに送り込んだあとに僕が手がけた仕事は、何とほとんど日本では実態のないドイツのハード・ロック・バンド"スコーピオンズ"の売り出しだった。ロックのA&Rが見捨てていたサンプル盤を自宅に持ち帰り、日本人に受け入れられるかどうかの吟味をした上でやろうと決めたのだが、ロック担当者も冷ややかな目で「どうぞ」と言うし、他の上司も「こんなものが売れるわけがないじゃないか」という半ばあきれた感じで編成会議を通してくれるという感じ。もちろん、当初は宣伝費ゼロで、四面楚歌の中でのスタートだったが、伊藤政則氏や当時ミュージック・ライフ誌の東郷かおる子さん達の暖かい応援のもと、アルバムは見事に大ヒット。音楽へのまっすぐな情熱は、岩をも通すということが本当にうれしかったことを記憶している。

話をもとに戻すが、音楽ビジネスに携わるものは、まず音楽を楽しめること。「好きこそものの上手なれ」という諺があるように、伝えようとする本人がまずその音楽にほれ込んでいなくては、絶対に第3者には伝わらない。音楽を聴きわけられる力をつけること、これが一番大事だ。それには、まず偏食せずに色々な音楽を聴くキャパシティを持つこと。そしてそれが良い音楽とそうでない音楽とを聞き分ける耳の力がつく一番のポイントなのだ。僕は大学時代はほとんどソウル・ミュージックは聴いたことがなかったが、レコード会社に入って、評論家の桜井氏から様々なソウル・ミュージックを勧められて好きになった。また、山下達郎氏に出会ってコーラスものが好きになった。音楽ジャンルは何でも良い。そのジャンルに精通しているよき師のアドバイスを受け、聴いてみるとなるほどと感心させられることが多い。そして奥底深い音楽の魅力にはまる。最近、音楽産業では、若者の音楽離れが急速化していると言われているが、業界全体がまず若者に音楽の楽しみ方、奥深さを教えていないのではないかと思う。僕なんか60歳近くになっても、いまだに色んなジャンルの音楽に興味があるし、聴いてみたいと思う。この原稿を元々引き受けたのは、一人でも多くの音楽ファンが増えて欲しいという僕の願いからなのだ。

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石原 孝プロフィール
1948年生まれ。1970年日本ビクターに入社。RCAレコードのDisco/Soul部門の担当A&Rとして、K.C.&The Sunshine Bandをミリオンに導く傍ら、DJならば誰もが一度は通った事のあるはずの名門、Gil Scott Heron、Gato Barbieri、Lonnie Liston Smith等を擁した Flying Dutchmanレーベルも担当。その後80年代にはアルファ・ムーン設立に参加し、現在はWarner Music Japanにおいて取締役として、そして、山下達郎・竹内まりやの所属するMOONレーベルのA&Rとして最前線で活躍中。レコードコレクターとしても我々の射程圏外はるか彼方に居る存在で、所有枚数は本人いわく「約10万枚」。まさに音楽の虫ともいえ、現在のレコード業界では異端児といえる存在である。

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