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[連載 : 第1回] 70年代中期の東京ディスコシーンの風景について

テキスト:石原 孝

私が日本ビクター・レコード事業部に入社したのが1970年。営業を経て、洋楽A&Rになったのが74年であった。とにかく音楽が好きで、特に洋楽、も うレコード会社に入ったのも、この仕事に就くのが最終目標だったくらいだから嬉しくて仕方なかった。担当はRCAレコードのソウル・ディスコ担当で、 ロック全盛時代の当時においては、やや新人A&Rの登竜門のような役割で、決してメインストリームとは言えないジャンルであった。

さて、そんなソウル・ディスコというカテゴリーの中でも、アメリカのチャートイン曲、例えば、Carl Douglasの「吼えろ!ドラゴン」、The Three DegreesとMFSB「ソウルトレインのテーマ」、George McCrae「ロック・ユア・ベイビー」、Love Unlimited Orchestra「愛のテーマ」、The Hues Corporation「愛の航海」などの楽曲は、従来のソウルミュージック、例えば名門Motown、Stax、Atlanticといったレーベルが輩出した音楽とは趣を多少異なものにしていた。それはまさに聴くソウルから、踊る事を主眼としたソウルミュージックの台頭の始まった瞬間であり、勿論、本流であるMotownのStevie Wonder「悪夢」、Eddie Kendricks「ブギータウン」、abkcoのThe Stylistics「誓い」、RoadshowのB.T Express「ドゥー・イット」等と並行する形でありながらも、徐々にヒットパレードを賑わすようになっていった。そして次第に本流のソウル・レーベルの音楽にも強い影響力を及ぼすようになり、この流れがいわゆる「ディスコ・サウンド時代」の幕開けへと繋がっていくのである。

当時、日本でもいち早くこの流行を取り入れ、「ディスコ1号店」とうたわれたのが新宿駅のすぐ側に位置していた「ソウルトレイン」である。今では新宿と言うと、風俗か危険な街というイメージが強いが、当時は若者の文化の発信地であり、もう連日、すし詰めの状態で、いつも満員御礼、入れない客が周辺をタムロするという状況であった。今でも超有名な女優Aや、ポップス歌手S、Hなどは常連で、いつもこの店に出入りしていた。後々においては、ディスコは中・高校生を中心としたティーンの遊び場となったが(当然これは法律的には違法でよくガサ入れが行われていたが)、当初はおしゃれ系の大人の社交場であり、当然、店内でかかる音楽は、アメリカからの輸入盤が多く、アメリカの流行に敏感に反応した選曲であった。

その後、あっという間にディスコブームは東京を席捲、数多くのディスコが出現し、店のカラーも多種多様、かかる音楽も店内の内装も店によって様々という状況に変化していく事になる。当然、今のクラブDJ同様、ディスコDJも選曲には真剣で、いかにお客にうける曲を流すかがお店の繁栄に繋がるとあって、レコー ド会社のディスコ担当A&Rより選曲センスはシャープであった。

DJ達には信じられないような事が平気で起きていた時代で、ある有名なロック誌などにK.Cのアーティスト写真を持っていっても、ケンもホロロに取り扱われるといった始末であった。

また、今のクラブシーンにおいて、こういったユニークな傾向があるかどうかは実際に確認したことはないが、当時のディスコでは地域によって流行る音楽が様々であり、東京都内でも、新宿、六本木、赤坂、渋谷では、かかる音楽は随分と異なっていた。レコード・セールス的にはやはり新宿系が一番影響力を持っていたが、赤坂などは、アダルト層が多かったせいか、白人系ディスコ音楽などは殆どかけられていなかった。一方、新宿は客に受ければ、ラテン系でも白人系でも、勿論黒人系でもOKという雰囲気があり、したがって、客の反応に最も敏感に反応していたのがここのエリアのDJ達で、年齢的にも若く、レコードのヒットも実際に多く生み出していた。そして、特筆すべきなのは、大阪のディスコで、勿論、中心地はキタではなく、ミナミなのだが、ここでは日本人のディスコ・サウンドもOKで、山下達郎の「ボンバー」やアン・ルイスの曲なんかも、洋楽曲の中に平然と馴染んでかかっていた。一方、札幌などはあくまでアメリカのチャートにこだわる店が多かったりするなど、本当に多種多様な風景が当時は広がっていたことを良く覚えている。

このように、ディスコ・ミュージックは、マスコミが作る流行音楽ではなく、DJ一人一人の個性で流行させる、手作りのヒットミュージックであった。そして、今やすっかり確立したジャンルとなった「ディスコ」、そしてそこから派生した現在の「クラブミュージック」へと繋がる道のりは、間違いなくこの時代を原点にスタートしたと言えるのである。

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石原 孝プロフィール
1948年生まれ。1970年日本ビクターに入社。RCAレコードのDisco/Soul部門の担当A&Rとして、K.C.&The Sunshine Bandをミリオンに導く傍ら、DJならば誰もが一度は通った事のあるはずの名門、Gil Scott Heron、Gato Barbieri、Lonnie Liston Smith等を擁した Flying Dutchmanレーベルも担当。その後80年代にはアルファ・ムーン設立に参加し、現在はWarner Music Japanにおいて取締役として、そして、山下達郎・竹内まりやの所属するMOONレーベルのA&Rとして最前線で活躍中。レコードコレクターとしても我々の射程圏外はるか彼方に居る存在で、所有枚数は本人いわく「約10万枚」。まさに音楽の虫ともいえ、現在のレコード業界では異端児といえる存在である。

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