HigherFrequency  DJインタビュー

ENGLISH INTERVIEW

Danny Rampling

2005年7月の終わりにDJ活動からのリタイアを発表することで、Danny Rampling は、デックスから離れることを正式にアナウンスした初めてのビッグ・ネームDJとなった。しかし、引退を発表してからというもの、彼が過ごしたこの3ヶ月は今まで以上に多忙を極めているという。

「アナウンスをしてからというもの、まったく地に足が着かない感じだよ。ツアーをして回ったり、コンピレーション・アルバムを制作したりですごく忙しいんだ。この忙しさはニュー・イヤーズ・イヴまで続きそうだね」

「DJの友達からも、たくさん励ましを受けたよ。Louis Vega とか、Carl Cox、それに Frankie Knuckles... Frankieからはすごく素敵なメールをもらったんだ」

「引退を決めたことに関しては、正しい判断をしたと思ってるし、このような結果になって良かったと思ってる。アルバムに関しても全てがスムーズに運んだし、真夜中に汗だくで目が覚めて "俺は何てことをしてしまったんだ!" なんて思うこともないしね。これからチャレンジすることに対してすごくエキサイトしてるよ。船の上で夕焼けと共にワインを飲んだり、一日中ガーデニングしたり、クリケットを観てダラダラするつもりは毛頭ないんだ」

彼の今後のチャレンジとは、以前もお伝えしたとおり、レストランを開業することであるのだが、その前に、彼の最後のコンピレーションCDとなる 'Breaks For Love' がリリースされる。Defected から3枚組でリリースされる本作は、Mandy Smith の "I Just Can't Wait" から、Dan Hartman の "Relight My fire" 、It's Immaterial の "Driving Away From Home" のほか、20年のDJ活動を通して Danny がプレイして来たフェイバリット・トラックが収録されている。

「収録するトラックを選ぶのはかなり難しい作業だったよ。DJをスタートした始めの2年間の夏に感じたような、スピリチュアルな感覚と素晴らしいエネルギーをクリエイトするには、何か特別な力が必要だと信じていたんだけど、今回のアルバムのミックスをしている時にも不思議と同じような感覚が味わえたんだ」

「2〜3ヶ月かけて収録するトラックを考えた後、レコードを置いてある地下室に4日間かけて通ってレコードを掘り起こして、いよいよトラックを繋げていく段階になったんだけど、全てのトラックが驚くほどスムーズに繋がってね。ここのアルバム入れたトラックは、それこそ今では頻繁にプレイしているものではないけど、僕にとってはすごく大切な意味を持つもので、今までにクラブ・シーンで経験してきた素晴らしい思い出を思い起こさせてくれる大事なトラックなんだ」


> Interview : Jonty Skrufff _ Translation by Kei Tajima (HigherFrequency)

triangle

Skrufff (Jonty Skrufff) : 収録曲の中でも僕が気に入ったのは、It's Immaterial の 'Driving Away From Home' でした。このトラックを収録されたのはなぜですか?

Danny Rampling : このトラックは'80年代にリリースされたもので、サッチャー政権下のイギリスや、その時代をよく表現したトラックなんだよね。その頃の僕たちは、「この国なんて捨てて、違う場所に行ってしまおう」ってよく話していたものだよ。その頃は25歳以下ならヨーロッパ中を回れる電車のチケット制度があったから、同世代の子の多くはヨーロッパに旅に出たんだけど、僕はアメリカに行ったんだ。当時はたくさんの人がイギリスに対して幻滅していて、このトラックはそんな状況をよく表していた。だからみんなこのトラックに共感したんじゃないかな。バレアリックな感じもあるしね。これは、若者たちが口をそろえて「こんな国捨ててしまって、いっそ違う場所に行ってしまおう」と言っていた、不景気で惨めだった時代を要約したようなトラックなんだ。そんな'80年代の一面をよく反映していると思うよ。

Skrufff : DJを始められる前は、大工として働かれていたようですね?

短い間だったけどね。3ヶ月くらい大工の見習いをやってたんだ。Wandsworth 工業大学 でコースを受けなくちゃいけなかったんだけど、朝8時に学校に行くのが辛くてね。始まってから一週間の間、遅刻ばかりしていたんだ。それで、ある日先生から 「会社に電話して報告するぞ!」って言われてしまってね。だから僕はこう言ったんだ「もし連絡するなら、すぐした方がいいよ。僕は家に帰るから!」…それが僕の見習い時期の終わりだったと言うわけ。

いわゆるパンク・アナーキー精神というやつさ。パンクが僕に「見習い実習がなんだよ。やめてやる」と言う勇気をくれたというわけ。あれは1978年で、ちょうどパンクがピークの時だった。パンクのこういう 「誰がなんと言おうと、自分らしくいろ」っていうスタンスは、アシッド・ハウス・カルチャーと似ている部分もあるよね。

Skrufff : あなたは Bermondsey というロンドンの中でも最も治安の悪いエリアでDJキャリアをスタートされましたが、当時を振り返っていかがですか?

Danny Rampling : 治安が悪くて、犯罪も多い町だったけど、'80年代初期には、そういう組み合わせが人を惹きつけたんだろうね。Bermondsey がまるで Islington の Upper Street みたいな盛り上がりをみせていたんだ。Tower Bridge Road や周囲の道路沿いなんかにバーがたくさんあって、南ロンドンじゅうから人が大勢集まっていた。だからDJするにはパーフェクトな場所だったというわけさ。時には一日中続くパーティーや、シークレット的なプレイすることもあって、すごく楽しかったよ。いつも楽しい時間が過ごせたし、一日中プレイすれば2万円くらいもらえたしね。トレーニングするにはいい場所だったんだ。

Skrufff : かの有名なイビザでの伝説的な経験をする前は、どんな仕事をしていたんですか?

Danny Rampling : ちょこちょこといろんな仕事をしてたよ。その中でも面白かったのはファッション・ストアで働いたことかな。この仕事では、今でも連絡を取り合っているような素晴らしい人々に出会えたんだ。人生観が変わるような経験だったよ。ファッションの世界やロンドンのゲイ社会についても知ることが出来たからね…ゲイ社会について理解することが出来るようになったんだ。店に来る80%以上の人がゲイだったからね。ロンドンのそういった一面を知ることが出来たし、店での仕事はすごく魅力的だったよ。当時の有名人もよく買い物に来たんだ。

レコードを集めるようになったのもあの頃だったね。当時の僕の夢は、DJとしてクラブで働くことだったんだ。マイクでしゃべるのはあまり得意じゃなかったんだけどね、当時はトークも上手くなきゃいけなかったんだ。自信を持ってマイクでトークしなくちゃならないのに、僕といったらマイクを手にしてしゃべるのがやっとだった。人前でしゃべるのは簡単なことじゃないよ。

Danny Rampling Interview

Skrufff : いつ頃からDJとして多額のお金を稼ぐようになったのですか?

Danny Rampling : 大金を稼ぎたかったけど、出来なかったね。それでも、稼いだほうだとは思うし、いい額のお金をもらってきた。Club UK がオープンした'90年代の中ごろが、ターニング・ポイントだったんだ。あれはスーパー・クラブ時代〜DJが大金を稼ぐ時代の幕開けだった。DJのギャラが跳ね上がって、Cream や Ministry Of Sound みたいなクラブも盛り上がり始めて、来場者の数に比例して、DJのギャラも上がっていったんだ。もしレイブでプレイしていたら、もっとお金を稼げてたかもしれないけどね。同期の仲間で、すごく高いギャラをもらってた奴をたくさん知ってるけど、僕は違ったんだ。'80年代後半に Sunrise や Biology みたいな大きいレイブでプレイしていたDJなんかはものすごい額のギャラをもらってたよ。

Skrufff : あなたのパーティー "Shroom" は儲かっていたのですか?

Danny Rampling : "Shroom" は、パーティーを愛する気持ちからやっていたんだ。決してお金目当てのパーティーではなかったし、ビジネスでもなかった。勘違いする人は多いけど、常にお金目当てでないことは明らかだった。エントランスは5ポンドで、場所を借りたり、Joey & Jay の "Good Times" からサウンド・システムも借りなくてはならなかった。それに加えて、DJへのギャラやプロモーション費を払っていたしね。Fitness Centre でイベントをやっていた時は、300ポンド稼げればラッキーって感じだったよ。通常、ハコ代にサウンドシステム、セキュリティーやドア・スタッフを雇うのにかかるコストは決まっていて、それも結構な額だったんだ。それでも、僕たちにはパーティーをやることが一番大事だった。すべてはパーティーのためだったのさ。そういうポリシーで1年半 Fitness Centre で行われていたんだ。エントランスは出来るだけ安くして、僕たちの買ったお水や Lucozade をお客さんに無料で配っていたんだ。

Skrufff : 今振り返ってみて、その頃があなたのキャリアの中でもベストな時期だったと思われますか?

Danny Rampling : 間違いなくそうだね。素晴らしい思い出はたくさんあるけど、フレッシュでナチュラルなエネルギー、プロになることへのスリルな感覚に溢れていて、自由にプレイできる自分の場所を持つという意味でも、やっぱりあの頃が一番素晴らしかったよ。7年間もDJの下積みとして苦労した成果が、あんなかたちで表れた時の気持ちは、表現しようがないほど素晴らしいものだったね。シーンはエキサイティングな新しい音楽で溢れていたし、パーティーの雰囲気も素晴らしかった。社会そのものが変わっていくような感じがしたし、みんな前向きだった。そういったエネルギーは、間違いなくクラブ・シーンを刺激して、盛り上げていく力になったと思うよ。新しい時代に入っていくという確かな感覚があった。当時は本当にそう信じていたんだ。サッチャー政権の灰色の時代に比べたら、虹の上にいるような感覚だったよ。

Skrufff : 最近のイギリスの状況は以前と比べてどのくらい良くなったと思いますか?

Danny Rampling : アシッド・ハウス・カルチャーの初期のロンドンの若者文化には、素晴らしく純粋な団結とハーモニーが感じられたものだったんだ。今までにインタビューで何回も話してきたように、アシッド・ハウス・カルチャー以前のロンドンで、他人と違うスタイルの服を着ていたりしたら、酷い目に遭っただろうし、もしストレートな人が集まるクラブにゲイの人が遊びに行けば、暴行を受ける羽目になっただろうね。それが当時の人々の考え方や風潮だったんだ。特にパンクの時期なんかはね。ロンドンにはたくさんの派閥があったけど、アシッド・ハウス・ブームが巻き起こった時に、そういった派閥が崩れて、団結が生まれたんだ。すがすがしいものだったよ。ロンドンが一つの村のように見えたよ…人種も、階級も異なった人々が集まった、人種のるつぼであるロンドンが団結したんだ。素晴らしかったよ。

全ての人が共通の気持ちを持った、魔法のような、すごくスペシャルな時期だった。'60年代のシーンの中心にいた人々の気持ちと比べることも出来るかもしれないけど、もう少しこぢんまりとした感じかもしれないね。'60年代のシーンには、もう少し華やかさがあったんだ。でも、アシッド・ハウスには華やかさは必要なかった。何を着ていようが関係なくて、重要なのは、人々の気持ちや、態度。そういうアシッド・ハウスの風潮が、いろいろなタイプの人々に訴えかけ始めて、人々を動かしていったんだ。みんな、目の前にあるチャンスを掴もうと、いろいろなことを実行し始めた。芸術やメディア、デザイン、音楽、音楽マネジメントといった方法を通じてね。そうやって、業界の全てがアシッド・ハウスから生まれたんだ。始めはすごく純粋な会社が多かったよ。みんながみんなを助け合っていたからね。すごくポジティヴな時期だったよ。

Danny Rampling Interview

Skrufff : 今日のダンス・ミュージック・シーンについてはどう思われますか?

Danny Rampling : いろいろミックスされて、いい感じになってきたんじゃないかな。クリエイティヴな作品やアイデアがたくさん出回っていて、シーンの今後を担っていく若い才能もたくさんいるし、経験のあるベテランDJもいる。シーンの初期から活躍しているDJたちを粗末に扱うのは良くないと思うんだ。DJはスキルが必要な仕事なんだ。こういった職業を長く、情熱を持ってやっている人々は尊敬されるべきだよ。クラブ・シーンについては、常にかたちを変え続けていると思う。イタリアでプレイすることが多いんだけど、最近すごくがっかりしてしまったのは、イタリアのクラウドが広い心を失ってしまったこと。狭い考え方の人がすごく増えてきていて、エレクトロばかり聴きたがるんだ。僕にしてみればエレクトロは一晩中聴くには単調すぎると思うんだけどね。エレクトロに限らず、どんなジャンルでも一晩中聴き続けると、飽きてしまうと思うんだ。音のバラエティーってものが今のイタリアには欠けていると思うし、イギリスで失ってほしくないものだね。僕たちは常にいろいろなジャンルの融合を試みてきたし、そういったオープン・マインドの精神こそが、初期のシーンの成長を促して、イギリスのクラブ・シーンをここまで動かしてきたんだ。どんなジャンルにもオープン・マインドでいるというイデオロギーがこのシーンの裏側にはあったのさ。

Skrufff : 引退について気を変えることはありませんか?

Danny Rampling : またカムバック・ツアーをやるとは思えないな。そういうのは僕のスタイルじゃないしね。理由があるから辞める決意をしたんだ。新しい方向へ進んで、それにフォーカスして、成功するためには相当の覚悟が必要なんだから。

Skrufff : レコードはそのまま残しておくつもりですか?

Danny Rampling : それについてはまだきちんと考えてないんだ。地下室はレコードでいっぱいだし、すごく場所をとってる。だから何枚かは売らないといけないかもしれないね。でも、そのうちのほとんどは手放したくないものばかりだし、あと20年もしたら、テクノロジーの時代を通り越してアナログ革命が起こって、またアナログ・ブームが来るかもしれないから、今それを売ってしまったら息子に恨まれそうだからね。何枚かは売ってしまうよ。でもほとんどは残しておくだろうね。

Skrufff : 正味2万5千枚をですか?

Danny Rampling : わからないな。多分1万枚くらいだね。20年後には多分、「なんでレコードを売っちゃったの?欲しかったのに」って息子に言われると思うんだ。でも、カムバック・ツアーはないよ。

Skrufff : でも、これっきりとは限らないですよね…?

Danny Rampling : 今年一杯は頑張るよ。一分たりとも無駄にするつもりはないんだ。今後も素晴らしいギグが予定されてるからね。でも、そうだね…。もうこれっきりかはまだ分からないね。

Danny Rampling の "Break For Love" は Defected Records から発売中



End of the interview

関連記事


関連リンク