HigherFrequency  DJインタビュー

ENGLISH INTERVIEW

まだ日本にはパーティもDJもレーベルも、なにもないという状況だった 93年、企業などの後ろ盾をもたない、文字通りのインディ・レーベルとして設立され、その後KAGAMIをはじめ、Riow Arai、Kaito名義で知られるHiroshi Watanabe、 DJ TASAKA、Mexico、Hitoshi Ohishiなど現在のシーンを担う、アーティスト達を発掘、またMijk Van Dijk、Ken Ishii、Black Dog、田中フミヤ、Thomas Schumacher、Hakan Lidbo 、など世界的なアーティストと交流を持ち独自の手法でシーンを切り開いてきたレーベル<FROGMAN>が、その活動を休止=Cold Sleepする。

今回から数回に渡り、激動の90年代のテクノの歴史を担ったレーベルの代表であるKEN=GO→(渡辺健吾)氏と、ゲストを迎え、14年間に及ぶその活動の軌跡から、いまだ大きな変化の中にある現在のシーンへと繋がる話を聞く。この話が懐かしいと感じる人、まったく初めて聞くという人、それぞれいると思うが、日本のテクノ黎明期に進化の一翼を担ったレーベルのストーリーを是非読んでみていただきたい。

Frogman the best 対談 : KEN=GO→(渡辺健吾)× Taichi MASTER

KEN=GO→(以下K) : ライナー・ノーツにも書いたんだけど、 Taichi 君は Cmjk(CT Scan)さんが Cold Sleep を作っている時にスタジオにいたんだよね。あの頃はまだ大学生だったんだっけ?

Taichi Master(以下T) : そうですね。あの頃は大学生で、中学の頃同級生だった Kick The Can Crew の Mcu や、 DJ Tatsuya と Hip Hop をやってたんですけど。3人のうち僕だけ美大に通っていて、その頃音楽で、特に Hip Hop で食っていけるなんて考えてもいなかったから、デザイナーになろうと思って一浪して美大に入って。浪人中も毎日アトリエに行ってデッサンやったりしてたんで他のメンバー2人とあまりあわなくなって、家にあったサンプラーを使って一人で音を作るようになったんですよ。

それまでラップの為のトラックを作ってたんですけど、一人になったから必然的にインストを作るようになって、当時あった Coldcut とか Bomb The Bass とか、ハウスやアンビエント・テクノとクロス・オーバーしたものを作るようになったんです。そうやって誰に聞かせるでもなく作ってた音源が、カセット・テープに2〜3本溜まってたんです。 その時、電気グルーヴを辞めて Cutemenをやってる CMJK さんが、“Keyboard Special”って雑誌で打ち込みテクニックを教えるような連載やってたんですよ。それを毎月読んでたんですけど、連載の中であげてるフェイバリット・アーティストが、俺が好きなものとすごく近かったから、「この人は俺のことわかってくれるんじゃないか」って思って(笑)。 その連載の中で“デモ・テープ募集します”ってのが始まったんで、送ってみたら次の号で「すごい奴からテープが来た!」みたいな。

K : 「俺か?!」みたいな?

T : 紹介されてたんです。それから僕以外にも優秀な人を集めて雑誌で対談しましょうということになって、座談会をやったんですよ。それが CMJK さんとの初対面ですね。

K : その頃にはもう仲良くなってたの?

T : 色々気に掛けてもらうようになって、スタジオにもちょくちょく遊びにいくようになってたんですよ。その頃 CMJK さんは CT Scan をやってたんですよね。CT Scanの作品がリリースされた頃、確か Yellow だったと思うけど、ホアン・アトキンスが来るからって誘われて遊びにいったんですよ。そこで健吾さんや佐藤大さんに会った。 それから CMJK さんが Cutemen を活動休止して、Confusion っていう新しいプロジェクトをやるから、サポートメンバーやってくれって言われて、ターンテーブルと、キーボードを担当するライブのサポートメンバーになって、いきなり全国ツアー廻って(笑)。

K : へぇ。CMJKって人は、表も裏も両方やりたいみたいなところもあって、今は裏方仕事がほとんどだけど、当時は自分でフロントマンを務めてたから、血気盛んな頃で革ジャンとか着てる感じだったんだよね。20代後半でしょう。 C.T. Scanは正体を明かさずにやってたけど、URとか、デトロイト系のアーティストが来日した時にはサポートやることが多かったんだよね。 早くから集中的にデトロイト系のパーティーをオーガナイズしてた小西さんという方には、日本からデトロイトを継承した音が出てきたってことで、すごく気に入ってもらってたんだ。 CMJK、それから電気グルーヴもそうだけど、オーバー・グラウンドとアンダー・グラウンドを行き来するような動きをやっていたと思うんだよね。 そういえばCUTEMENの渋谷公会堂でのライブの前にDJしてくれって言われて、やったこと急に思い出したよ。客入れのBGMだからCDでいいだろうと思うけど(笑)。今でこそバンドとDJが混じって出る事って珍しくなくなったけど、そういうことの走りだったんじゃないかな。そういう実験みたいな事をオーバー・グラウンドでもやろうとしてたし、その混じり具合は面白かったよね。

K : きっかけが Cold Cut だったり、Bomb The Bass だったりしたと思うけど、当時は「俺はHip Hop だぞ」っていう意識は強かったの?

T : いや。当時からハウスとして聴いてましたね。 Nu Groove とかの、アシッド・ハウスも買ってたし。

K : 初期のニュー・ヨーク系のね。

T : 当時は海外からにしても、クラブ系の音楽がリリースされる量は今と比べて絶対的に少なかったし、レコ屋にいっても Hip Hop の新譜が毎週並ぶってわけでもないし、とりあえずクラブ系ってことで全部聴いてたかな。

K : 店も当時だったら一緒くただったしね。

HF : お店はどこに行ってたんですか?

T : Ciscoですね。それから西新宿にディスコ系の流れでブラック・ミュージックだけ扱っているような店があったんですよ。

K : 当時ディスコ向けの12インチを専門に売ってる店とか、ユーロ・ビートとが結構売れてた頃だし、そういうお店があったよね。

T : 地元が巣鴨なんで Cisco 新宿のアルタに行ってたんですよ。あと地元の You & I っていうレンタル屋とか(笑)。店長がディスコ上がりのブラック・ミュージック大好きオヤジみたいな人で、普通のポップスに混じって、海外の12インチとかいっぱい置いてあったんです。Run Dmc とか Beastie Boys とか借りて。レンタルだと1泊2日で100円とかだったんで、いっぱい借りてきてテープにダビングしてましたね。

Dr.Shingo's Electronic X

K : リスナーとしてはそういった色々な音楽が別れてなかったのかもしれないけど、4つ打ちのテクノ、ハウスみたいなものを明白に意識した瞬間というのは?

T : それはさっき話しに出てきたコニーさんのパーティーで、デリック・メイが来日してリキッドでやった時ですね。海外のDJをちゃんと聴くのが始めてで、それがメチャクチャカッコよくって。

K : デリックは Hip Hop 的なセンスもあるよね。ファンキーだし。

T : そう。テクノってこんなにファンキーなんだって。

K : デリック・メイで衝撃を受けるってのは幸せだよね。しかもあの(新宿歌舞伎町の)リキッド・ルームでしょ?

T : あれでホントにやられた。それまでデリック・メイの名前も知らないし、レコードも1枚も持ってないし、“ストリングス・オブ・ライフ”もデリックがかけてる時に初めて聴いて、「なんだこの曲!」みたいな。

K : (笑)

T : それでもうわけもわからずとりあえずサインもらっとこう!みたいな(笑)。

K : 実は俺も、初めてテクノDJは本当にすごいなと心から思ったのはデリック・メイで、92年位だったと思うけど、ロンドンで、Lostっていう後で有名になるスティーヴ・ビックネルがやってたパーティーがあって、そのメイン・ゲストがデリック・メイだったんですよ。 1人でいったんだけど、最初YELLOWのメイン・フロア位の広さのところにいて、すごいパーティーだって聞いてきたのに、音もちっちゃいし、おかしいなと思ってたんだ。で1時間位そこにいたんだけど、そこはチル・アウト・ルームだった(笑)。 で、メインのフロアに行ったら裸の男達が4〜5千人位踊ってる馬鹿でかい体育館みたいなところだったんだ。当時トランスが盛り上がってきてたけど、デトロイト・テクノも再評価されていたよね。デリック・メイがどういうプレイをするかも全然知らなかったんだけど、動けなくなっちゃった位すごくて、本当に感動したんだ。 その時CJボーランドも出てたんだけど、その付き添いでR&Sのスタッフも来てたんですよ。みんな R&S のロゴが入ったTシャツを着て、フロアをうろうろしてたんだ。ひとりだったから誰かに感動を伝えたくてさ、それで俺は R&S のスタッフに話しかけて、「デリック・メイって知ってるか? スゲーぞあいつ!」みたいな事をいきなり話しかけた。それいまだに覚えてるな。スタッフはキョトンとしてたけど。「なんだこの変な東洋人は?」みたいなさ。 でもすごい衝撃だったんだよね。

デリック・メイのプレイを海外で何も知らずに聴けたっていうのは幸せだったんだよね。「French Kiss」を一回止めて手で回していって、だんだん速くなってきて、もう片方のターン・テーブルから別の曲が入ってきてみたいな、神業的なミックスを聴くことができたんだ。

当時は、ジェフ・ミルズもそうだけど、聴いたこともないようなプレイをするDJが大挙して来日するようになって、しかもリキッド・ルームみたいな環境が出来た時期でもあったし、 Frogman がスタートするのと同じ時期にそういう状況になったといのは、恵まれていたと思うし、毎週毎週楽しかった。

K : レーベルがスタートする前から、渋谷のFFDでやってたんだよね。それはリキッド・ルームが出来るさらに前の話なんだけど、パーティーを出来る場所がなくって、もちろんYELLOWとかで出来ればよかったんだけど、素人に週末パーティーやらせてくれるほど彼らも甘くないよね。だから、クラブじゃない場所で、スピーカーの設置からやるみたいなパーティーだったんだけど、そこが出発点だったんで、そこに来てくれた人たちのことはすごく覚えてるよ。

FFD はファション・ショーとか、結婚式とかもやるような、いわゆる多目的スペースみたいな感じで、床がフローリングだから、養生するところから初めて、照明のためのイントレを組んで、ストロボをつけて、上のフロアから10人くらいでスピーカーを運んで、アイス・ボックスの巨大なやつを借りてきて、ドリンクを売れるようにして、もちろん販売免許なんてないんだけど(笑)。だからホーム・パーティー感覚って言う感じだったよね。で、警察なんかも来ちゃうんだけど、「これはホーム・パーティーだ」って言って、返しちゃったりとかね。

HF : ハコはあるけど、中身はほぼゼロって事ですよね。

K : そう!(笑)。大晦日にやったんだけど、大量のゴミが出て、それを捨てるためだけに正月すぐから集まったんだよ(笑)。「バックレんなよ!」とか言ってさ(笑)。

HQ : 集客はどのくらい?

K : 600〜700人位?もしかしてもっと入ったかもしれないけど、とにかく中に入れなくなっちゃって、しょうがなく帰ってもらった人もいたな。その他のパーティーを見てみると、URのパーティーなんかでもお客さんが200〜300人くらいなのね。ダレン・エマーソンのパーティーはケンイシイがサポートをやったけど、それも200人くらいだったんだよね。

HF : その状況で700人以上の人が集まったというのはすごい事ですね。

K : びっくりしたよ。でも自分達でも何をやってるかわかんない感じはあったんだよね。その後、ちゃんとしたパーティーになったのは1年位してからじゃないかな。

(フライヤーを見ながら)

K : Maniac Love の系列のハコで新宿2丁目に Automatix というハコがあって、レギュラーでパーティーやってた。

T : 僕はそのパーティーで2FのラウンジでDJやってたんです。ニンジャ・チューンとか、アブストラクト・ヒップ・ホップとか、ダブとか、アンビエント・テクノとか、そういうのかけてましたね。

K : このハコはビルの上にあって、階段で上下を行き来するんだけど、上のフロアと、下のフロアでバーチャ・ファイターが出来るのが売りだったんだよね(笑)。

T : 対戦できるのがね(笑)

K : 2Fのメイン・フロアは Maniac の流れを引いてて、システムが MasterBlasterで音がすごくよくって、明け方は窓から新宿の夜景が見えて、いい箱だったんだよね。その2ndフロアはいつも Taichi 君にお願いしてた。多分この辺の流れで後のブレイクビーツもののCDで『Break-fast. First-break』ていうアルバムを出したんですよ。そこにも参加してもらったんだよね。 Frogmanっていうレーベル自体、雑食性が強くって、フロアもののテクノをやりたいって気持ちは一番最初にあったんだけど、ニンジャ・チューンだったり、チル・アウト系のものにも興味があったし、一番最初に出したアルバムがRiow Araiの作品だったりして、幅広いものをやりたいなっていう意識がすごくあって。だから Taichi 君が持ってる良さ、Hip Hopカルチャーや、ブレイク・ビーツものをわかってる事とか、そういう部分で一緒にやれるといいなーと思っていて、いつもアイデアをもらったりしていたよね。

HF : Taichi さんから見て Frogman はどういう存在だったんですか?

T : CT Scanから始まって全部の作品が好きだったし、僕の中では CMJK を介しての Frogman が唯一のテクノとの接点だったんで、日本のテクノ、イコール frogman て感じだったんですよね。フロッグマンを通して初めて知ることも多かったし。

Dr.Shingo's Electronic X

K : Taichi 君が自分のレーベルを立ち上げたのが90年代後半だよね。

T:そうですね。その頃は野田努さんが“eleking”を始めた頃で、ライターをやってた事もあるんですけど、Frogman の立ち上げメンバーでもあった“eleking”の社長がレーベルを立ち上げるから、Hip Hopのレーベルを担当してみないかという話になって、メインA&Rをやるようになったんです。そのレーベルから、Kick The Can Crewになる前の Kreva のバイファー・ザ・ドーペストと MCU のラジカル・フリークスというアーティストの作品2枚を出して、日本の Hip Hop がうまくいき始めていた時だったから結構売れたんですよ。そこからレーベル業の方が忙しくなって、あんまり曲作ったり、DJやったりしなくなったんですよね。その時期は少し離れてましたね。

K : そうだね。そういえば、'Break-fast…'で共作した Tasaka とは、学生の頃からずっと続いてたの?

K : そうですね。 Tasaka も、もともとHip Hop で、僕らが高校生の時に遊びに行ってたミロス・ガレージっていうハコがあって、そこの火曜日は毎週Hip Hopの日で、DJドッグ・ホリデイ、今の須永辰緒さんがまわしてて、あとECDもやっていて、そこに毎週行ってたんですよ。その頃、高校生だったから、次の日は寝ないで学校へ行くみたいな感じでしたね(笑)

K : いい時代だよねー!(笑)

T : IDチェックもないし(笑)。

K : だからその当時、東京近辺に住んでるHip Hop好きだったやつはみんな来ていて、スチャダラもいたし、その後Ciscoの店長になったアキトってやつと Tasaka も一緒に来ていた。毎週行ってもおんなじ顔だから、そこに来るやつはだいたい名前と顔は知ってて、会えば世間話するみたいな感じでした。その後、 Tasaka がテクノに行った時に、接点が生まれたんです。

K : ずっとつるんでたわけじゃないんだ。

T : 全然(笑)。普段から遊んでた訳じゃなくて、ホントにミロスだけで会うみたいな。再会したのは、はっきり覚えてないけど…。 Tasaka もテクノにはまったって話で、「Tasakaって、あの Tasaka?」みたいな感じだったんですよね。

K : なんか久しぶりに同級生に再会したみたいな(笑)

T : Hip Hopあがりでテクノも好きって事で、やっぱ似てるから、再会して仲良くなった。それから新宿のOTOでパーティーやったり、一緒に曲も作るようになったんですよ。

K : でも、その後もアルファのプロデューサーとして一緒にやってるから、長い付き合いになってるね。

HF : Hip Hop上がりで、テクノも聴くって人は当時珍しかったんですか?

T : 全然多くないですよ。

K : むしろ反目してたって感じじゃない?イメージとしてはね。でも初期のオールド・スクール、RUN DMCとかさLL COOL Jとか、ビースティとかみんな好きだったと思うし、UKの混沌とした感じというか、ハウスなのかHip Hopなのかわかんないみたいな初期のUKものの感じだといきやすいよね。

T : そういうのから聴き始めてNinjaTune とかM O’ Wax でインストの Hip Hop とかが出てきて、俺が作ってる音と近いなっていう感じでモロはまっちゃって。 だからやっぱりテクノは好きだったけど、根が Hip Hop なのか、モロ4つ打ちのトラックを作るってことはあまり無くって、やっぱりブレイク・ビーツだったりアブストラクトな Hip Hop だったり、テクノの匂いが入ったHip Hopってのが好きだったですね。エレクトロもそう。URも4つ打ちのものよりエレクトロのものの方が断然好きだったし。

K : 2000年前後位から、エレクトロがリバイバルしたりとか、ディスコっぽいものが出てきたりとかするけど、 Taichi 君もディスコとかいって、Kagami と一緒にやったりしてるし、そういう感じなんだ最近と思ってみてたんだけど、なんか、がっと4つ打ちでもいいんじゃないか?って心境に行ったのは?

T : でも、今でも曲作るときは、4つ打ちは自分の血の中に少ないなというのは感じますけどね。DJで4つ打ちかけ出したのもかなり後からで、だから自然に出てくるものはエレクトロだったりするし、ストリクトリーな4つ打ちはやっぱり Tasaka とかの方がすごいなって思ってますよ。

K : プロデューサーなり、ちょっと引いた立場でこういう人に仕事を頼んだらいいんじゃないかとか一緒にやったらいいんじゃないかとか、例えばアルファと Tasaka が一緒に組んだら面白いんじゃないかというのはあるけど、あえて自分で作ろうというところにはいかないってこと?

T : そうですね…。自分のアルバムでも4打ちの曲は作ったんですけど、ディスコネタのサンプリングありきで。プロデューサーとしてアルファをやってた時は、ラップを Tasaka の音に乗っけたら面白いんじゃないかと思って。自分が通ってきた、最初Hip Hopで途中テクノにやられてとか、聴き始めた時の状況、レコ屋にいってもHip Hopとかハウスなんかが同列に並んでたり、それがどんどん別れていったじゃないですか。さらにその中で細分化していったし。そういう状況をもう一回グチャグチャにしたいって思ってたんですよね。だからプロデュース・ワークではあえてそういうことを意識的にやってたんですよ。もっとグチャグチャにして距離を縮めたいと思った。

でも最近、シーンも今まで細分化したものがもう一回混ざってきてる感じがあるし、僕のやってたことと近いなーと思う事があって、M.I.Aもそうだし、彼女のプロデューサーもそうだし、バイリ・ファンキも下世話でいい。最近また面白いですよね。

K : 最近Hip Hopの中で、特にアメリカの人かもしれないけど、4つ打ちを意識したり、取り入れたりしてる人とかいるじゃないですか。そういうのはどうなの?Hip Hop的なアプローチで見ると新鮮なのかな。

T : 最近は Hip Hop もサンプリングじゃなくってシンセ使ってトラック作ったりとか、クリアランスの問題なんかで、そういう流れがあって音がテクノ化してって、自然に距離が縮まってると思うんですよね。

K : そういのを意識したってわけじゃないんだけど、90年代はテクノってすごく自由だったし、何をやってもいいんだっていう、無限に可能性があるような感じがあったし、どんどん新しい要素を取り入れて、ハードコア的なブレイク・ビーツみたいなものが出てきたり、生音っぽいものが出て来たり、ドラムンベース的なところまでいっちゃうものがあったりだとか、色々だったと思うけど、なんかそれがどんどん袋小路に行っちゃった感じもあって、すごいコアなものコアなものって求めすぎたのかなと思う事もあって、逆に最近Hip Hopの人達が自由にやってる印象もあったから、今回FINEのミックスを Taichi 君にお願いしたのも、ニュートラルというか、色んなものを捕捉できる感じを入れてもらえるといいなと思って、ストリクトリーにテクノをやるっていうより、遊びも欲しいし、フロッグマンはアーティスト・レーベルじゃないから、その時々で色んな事にチャレンジしてきたから、そういったところをすくい上げて貰えたらいいなと思った事もあって、それで今回 Taichi 君にお願いしたんだよね。結構大変だったと思うけど(笑)

T : ベスト盤にカップリングで付くものだから、しかもミックスにしか収録されていない曲もあるし、だから長く聴いてもらえるものにしたいという気持ちがあって、もっと再構築してグジャグジャにして、遊んでみたりもしたんですけど、モロ俺の作品にしちゃうよりは流れを重視して長く聴けるものにしたいなという方向に方向転換したんです。

K : 色んな人に聴いてもらってるんだけど、前から Frogman を聴いてくれている人になればなるほど、すごいよかったって言ってくれる。だからその辺は伝わってるんじゃないかなと思います。すごく長い時間の中の色んな響きを持った曲がすくい上げられたんじゃないかと思っていて、俺は本当に感謝してます。



SQ presents FINE: Frogman “Cold Sleep” party

2008年01月25日(日) @ Unit _ 23:30 〜
Door : Y3,000 _ w/flyer : Y2,500 _ w/"FINE" CD : Y2,000
※"FINE: The Best of Frogman" CD持参の方1,000円Offの2,000円にて入場可。
Lineup : Frogman/U.S.B. All Star Artists!!
DJ & Live : Taichi Master, Hiroshi Watanabe (a.k.a. Quadra, Kaito), Kagami, Toby, Hitoshi Ohishi
Saloon (B3F)
Riow Arai, C.T. Scan (CMJK), Mexico (a.k.a. Jun Yamabe), Hulot, Hirofumi Goto, Susumu Yokota, KEN=GO→
Music : Techno